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女優・山田五十鈴“比類なき執念と勝負強さ”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

女優・山田五十鈴“比類なき執念と勝負強さ”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』
灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』 (C)週刊実話Web

「初日の舞台に立つと、いまだに体が震えるの。何十年やっていても、あの瞬間の緊張感は何ものにも代えがたい」

日本を代表する女優の山田五十鈴が、あと2年で芸能生活70周年を迎えようとする年に言った言葉だ。

1930(昭和5)年に銀幕デビューした山田は、当時、弱冠13歳。『剣を越えて』で大河内傳次郎の相手役を務め、続いてオールスター特作『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻』に、新人としては異例の大抜擢をされる。結局、山田は1年目だけで15本の作品に出演し、日活時代劇のトップ女優となった。

以後、会社を移籍しながらも、36年には溝口健二監督の『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』に主演し、その演技を高く評価されて生涯女優として生きることを決意。太平洋戦争の混乱を経て52年には渋谷実監督の『現代人』、56年には成瀬巳喜男監督の『流れる』、57年には黒澤明監督の『蜘蛛巣城』や『どん底』など、いまなお映画史に残る作品に出演し、山田はスター女優として揺るぎない地位を築いた。

そんな山田に1つの転機が訪れたのは、いまから60年ほど前のこと。62年、当時の山田は45歳になっていた。その年、彼女はある決断を下す。年齢的にみて以前のように映画で主役を張ることはできない。それを見越して、今後は活躍の場を舞台とテレビに移行させたい。率直で思いきりのいい、しかし、苦渋の選択でもあった。

同年に東宝演劇部と専属契約を結んだ山田は、活動の拠点を舞台へと移す。以後、水谷八重子(先代)や杉村春子とともに、舞台における〝三大女優〟(女優の三絶)といわれ、演劇界の看板役者となった。代表作の1つである『たぬき』では立花家橘之助を演じ、浮世節を弾き語りして評判を得ている。

ハリウッド女優並みの男性遍歴

戦前、戦後を通じて大女優の誉れ高かった山田は、映画界を代表する巨匠たちと組んで多くの名作に出演したが、その一方、華やかな男性遍歴もハリウッド女優並みだった。

35年に月田一郎(俳優)と最初の結婚をして以来、滝村和男(映画プロデューサー)、花柳章太郎(新派俳優)、衣笠貞之助(映画監督)、加藤嘉(新劇俳優)、下元勉(新劇俳優)らと愛を重ねていく。

そんな派手な色恋とともに、山田の女優生活を支えるもう1つの活力源、ストレス解消剤になっていたのが、何日か遠ざかっていると禁断症状に陥ってしまうほど、好きでたまらない麻雀であった。

こちらのキャリアも戦前から打っていたというほどで、完全に素人離れしていた。雀風は女性特有の直線的な打法ではなく、骨太で思慮深いタイプである。

この〝五十鈴流〟麻雀を語る際に欠かせないのが、彼女が座長公演の折に主催する麻雀大会だ。賞品、飲食、場所代、すべての費用をポケットマネーからポンと投げ出す。

参加できるのは、共演する役者だけではない。制作スタッフから裏方に至るまで、舞台公演に関係している人間であれば年齢、性別を問わず、麻雀好きであれば誰でも快く迎えてくれる。参加希望者が殺到するため、大人数が収容できる会場探しが大変だったという。

昭和歌謡界の大御所で、山田からしばしば舞台公演に声をかけられていた三橋美智也は、こう話していた。

「とにかく勝負強い方ですよ。ある日、山田さんと同卓になりましてね。運よく彼女から国士無双をアガった。振り込んだときの山田さんの悔しそうな表情、負けん気が全身にあふれていました」

幸先よく役満をアガった三橋のトップは確定かと思われたが、オーラスで劇的な一打が誕生した。三橋の述懐は続く。

華麗なる国士無双返し

「私の役満から30分後くらいに、今度はラス親の山田さんが、まるで狙いすましたかのように私から国士無双を直撃。それも十三面待ちという一枚も二枚も華麗なアガりで、見事に雪辱を果たしたんです。勝負に懸ける執念のすごさは、女優の生命力と一体化している。そう思いましたね」

自ら招集した麻雀大会で、日頃の労をねぎらう。スポンサーとして十分すぎるほどの配慮を見せつつ、いざ対局となれば手抜きをしない。山田が自ら主催した大会で優勝したことは、一度や二度ではないという。

山田は57年からテレビドラマにも出演するようになり、64年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』では、大石内蔵助の妻「りく」を演じた。また、朝日放送の必殺シリーズはドラマの代表作となり、いずれも三味線弾きの人物を演じている。

特に『新・必殺仕事人』以降の作品では、三味線の撥を武器にする元締の「おりく」を演じ、同役で『必殺仕事人V』まで出演。劇場版2作にも登場し、当たり役とした。

山田は80年ごろに京都の自宅を引き払い、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由から、帝国ホテル(東京都千代田区)の一室で生活を送っていた。その頃、近くの有楽町を私と加茂さくらが歩いていると、1人で杖をついている山田と出くわしたことがあった。

加茂があいさつに行くと、「転んで足をけがしてしまい、なかなか仕事ができなくて…」と言っていたという。その後、2002年に山田は脳梗塞を発症し、同年を最後に公式の場に姿を見せることはなかった。

12年7月9日、多臓器不全により死去。95歳没。葬儀には、生前の山田を慕っていた俳優ら600人が参列したという。

(文中敬称略)

山田五十鈴(やまだ・いすず)
1917(大正6)年2月5日生まれ~2012年7月9日没。1930年に日活太秦撮影所に入社。デビュー直後から活躍し、昭和期を代表する女優として映画界、演劇界の頂点を極めた。2000年には女優として初めて文化勲章を受章。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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