高校在学中のジャイアント馬場(本名は馬場正平)は、野球とともに卓球の名選手として鳴らした。晩年こそリング上で鈍重な動きを見せていたが、10代の馬場少年は眼光鋭く、動作も機敏であった。
馬場の存在は地元のスポーツ界に広く知れ渡り、中でも日本相撲協会が勧誘に積極的だった。破格の条件を提示して熱心に角界入りを勧めたが、馬場が選択したのはプロ野球のユニホームに袖を通すこと。それも、幼少のころから憧れていた読売巨人軍のピッチャーとしてであった。
年齢的には長嶋茂雄や村山実と同世代だったが、故障がちで多摩川の二軍生活が続く。巨人軍から自由契約を言い渡されても一軍マウンドへの夢を捨て切れず、大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)のテスト生としてキャンプに参加。起死回生を期したものの風呂場で転倒し、利き腕に大けがを負ったことで野球選手の道を断念する。
以前に馬場が、私と麻雀をする前にこんな話をしたことがある。
「レスラーをやる前、麻雀で食べていた時期があるんだ。蒲田(東京都大田区)の雀荘を打ち歩いてね」
1960年4月11日、馬場は巨人時代に面識があった力道山に日本プロレスへの入門を直訴、ヒンズースクワット(プロレス流の下半身トレーニング)100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まった。
馬場の生涯のライバルで、力道山がブラジル遠征でスカウトしてきたアントニオ猪木も、同日にプロレス入り。プロ野球界では前年に王貞治が巨人軍に入団しており、これでプロレス界もONに匹敵する強力な2本柱が誕生した。
力道山がうらやむほどの成功
当時、馬場は22歳。力道山から容赦のない猛練習を課せられたが、その巨体に懸ける期待は大きく、早くも61年には全米武者修行を命じられた。アメリカでの馬場は各地でメインイベンターとして活躍し、主要な世界タイトルに次々と挑戦。力道山がうらやむほどの成功を収めた。
63年3月に凱旋帰国した馬場は、従来の日本人レスラーには見られないスケールの大きなアメリカン・スタイルでファンを魅了し、強豪外国人レスラーと名勝負を演じた。
同年10月に再びアメリカ遠征に向かったが、わずか2カ月後に力道山が死去したため急きょ帰国。その際、グレート東郷から「力道山死後の日プロの先行きが怪しい。高額の年俸を保証するからとどまれ」と求められたが、馬場は「金銭の問題ではない」ときっちり断ったという。
馬場はその巨体とは対照的に、繊細かつ知的な一面を持っていた。生前、大型書店の宣伝ポスターに起用されたように相当な読書家で、司馬遼太郎や柴田錬三郎の歴史小説を熱心に愛読していた。
麻雀をするときの姿勢にしても、随所にデリケートな面が垣間見られた。リング上のファイトから想像もつかない静かな物腰で、折り目正しく牌を引き、捨て牌を置く。
かつて、日プロの事務所は代官山にあった。事務所内には麻雀部屋があり、会社へ行くと馬場は、幹部社員や計理士(現在の公認会計士)らと卓を囲んでいた。
馬場は長らく日本プロのエースとして君臨し、猪木とのタッグ「BI砲」や坂口征二と組んだ「東京タワーズ」などでも活躍したが、72年7月に退団。10月に日本テレビと三菱電機の後押しを受け、全日本プロレスを旗揚げした。
当初は30代での引退を模索
その際、日プロ時代に保持していたタイトルをすべて返還しており、団体の看板になるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラーたちと全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(のちのPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。合計10戦において8勝0負2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。
当時の馬場は社長兼レスラーとして多忙を極めていた。もともと馬場は自らの人生設計において、30代後半での引退を描いていたというが、猪木率いる新日本プロレスとの興行戦争が過熱する中、その希望はかなわないものになっていく。
常に闘いに身を投じていた馬場にとって、麻雀はひとときの癒やしを与えてくれる貴重な趣味であったに違いない。
そんなある日、馬場と麻雀卓を囲む前に雑談していたところ、ひょんな質問をされた。
馬場「ちょっとプロに聞きたいんだけど、ノーテンリーチはルール上、ありやなしやなんだが…」
灘「流局となってノーテンリーチが発覚した場合、チョンボ料が必要ですよ」
馬場「そうだと思ったんだ。この前、リーチでもアガれないし、手を変えてないからチョンボじゃないと言い張られてね」
灘「それは屁理屈です。ルール上は通りませんよ。それにしても人が良すぎるんじゃない」
晩年はバラエティー番組でも人気を博したように、どこかとぼけたところがある〝世界の巨人〟は、体だけでなく心もジャイアントな人だった。
(文中敬称略)
ジャイアント馬場(じゃいあんと・ばば)
1938年1月23日生まれ~1999年1月31日没。新潟県三条市出身。巨人軍にスカウトされて55年に入団。プロレス転向後は日本プロレスのエース。72年の全日本プロレス設立後は、社長兼レスラーとして活躍した。
灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。
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