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田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part1~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『兵隊やくざ――“田中政治の原点”型破り戦場秘話』Part1~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

満20歳に達した田中角栄は、昭和13(1938)年の春、生地の新潟県柏崎で徴兵検査を受け、甲種合格となった。

折から前年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で日中両軍の戦闘が始まり、日本にとっては中国に対する〝全面侵略〟への口火となった。戦線は一気に拡大、海軍陸戦隊が上海で中国軍と交戦するなどで、その年の暮れには早くも南京を占領するといった具合だった。

一方、日本国内では「挙国一致」が叫ばれ、戦時経済体制が強化、出征兵士への〝弾丸よけ〟のおまじない「千人針」が送られることが盛んになった。また、ちまたでは古関裕而作曲の「〽勝ってくるぞと勇ましく」の『露営の歌』、淡谷のり子が歌う『別れのブルース』、同じくディック・ミネの『人生の並木路』が流行っていた。

その頃の田中と言えば、15歳で上京後は小僧として必死で働き、日中戦争が始まった19歳時には、東京・神田錦町に事務所兼住宅として「共栄建築事務所」の看板を掲げていた。東京帝大教授、貴族院議員の大河内正敏子爵が率いた理化学研究所(理研コンツェルン)とのパイプがあったことから、仕事は順調をきわめ、田中は朝6時から夜は11時、12時まで働き続けるという毎日であった。

仕事は極めて順調、ためにその頃の田中の月収は300円から500円もあり、すでに〝巨万の富〟を手にしていた19歳だった。小僧の頃、15円50銭の給金(給料)に腹を立てていた少年が、わずか数年で、とてつもない収入を得るようになったのである。そうした中での20歳、徴兵検査の甲種合格ということだった。

「カネは俺が出す」

さて、田中のもとにいよいよの入隊通知が届いたのは、徴兵検査から半年余りが経った昭和13年暮れ、配属は陸軍盛岡騎兵隊第三旅団第二十四連隊第一中隊、二等兵として最前線の満州への応召ということであった。翌14年3月末、連隊は広島に集合させられ、1日おいて早春の瀬戸内海から関門海峡を抜けて日本海を北上し、満州上陸のため北朝鮮の羅津港へ向かった。船は貨物船を改造した輸送船で、船腹には「おはいを丸」と記されてあった。

田中は自らの著『私の履歴書』の中で「波にも揺られたが、新兵にとってそんなことはたいしたことではなし。元気いっぱいで、生まれて初めての船旅を楽しんだ」と記しているが、新潟県出身者による12人の班編成で田中と一緒だった横田正治という戦友が、のちに田中が首相になったあと、船中の田中を次のように証言している。彼によれば、戦地に赴く若き日の田中の度胸のよさ、豪胆さ、潔さが存分に知れる。

「乗船まで時間があったので、班の12人で記念写真を撮っておこうということになった。料金は皆で平均割にしようという話が出たが、田中先生は『俺は少し余分にカネを持ってきたが、どうせ向こうに行けば使えない。俺が出すからいいよ』と言って一人で払われた。太っ腹だった。

船の揺れは陸地が遠くなったと思われる頃から、われわれのいる船倉に伝わってきた。皆、初めの元気はなくなり、顔面蒼白、吐く者が続出した。食事当番は3人ずつ組んで炊事場へ取りに行き、終わったら食缶を洗って返すのだが、とても食べられないから当番を勘弁してくれという者が増えていった。

そんなとき『俺がやる』と言ったのが田中先生だった。『俺は大丈夫だ』と率先して船倉の梯子段をのぼり、炊事場へ食缶を取りに行き、終わるとキチンと洗って戻していた。何事も率先垂範の田中先生の生きる姿勢は、この頃からのものだった。もっとも、さすがの田中先生も炊事場通いがこたえたか、やがて船酔いにやられていたが…」

輸送船内で“春画”をスラスラ

「こんな話もある。うつ伏せに寝たままの田中先生が、自分の手帳を出して1枚破り、絵を画き始めた。皆が寄り集まって何を画くのかと思っていると、黒の鉛筆と赤鉛筆を使い分けての見事な〝春画〟だった。できた絵を皆が手に取って見たが、とても素人の絵とは思えないほどの出来栄えだった。

私はこれから生死のかかる戦地に向かうというのに、ずいぶん元気でたいした男もいるものだと驚いた記憶がある」(『私の中の田中角榮』田中角榮記念館編・海竜社=要約)

さて、羅津港から上陸した田中ら一行は、第二十四連隊が駐屯する富錦へ向かった。富錦へは汽車、途中からトラック輸送である。満州の春はまだ浅く、トラックによる輸送の田中らの顔に当たる風は、肌を刺すような強い寒さであった。

富錦での田中らの宿舎は、満州国境近くを流れる松花江のほとりにあった。到着したその晩、私物検査があった。この検査で田中は、班長の軍曹から頬をいやというほど張り飛ばされた。早くもの〝初ビンタ〟である。問答無用、旧陸軍内務班の生活は、すでに新兵にとっては「地獄」として知られていたのである。

その後も田中は、1週間に2、3回ほど、些細なことでしばしば〝ヤキ〟を入れられた。ただただ、歯を喰いしばっての忍の一字である。

後年、政治家となった田中は、言葉少なに言っていた。

「絶対に戦争はやってはならない。戦争を体験している人間が政治をやっている間は、戦争はやらない。大丈夫だ」

ただし、戦争を知らぬ世代となったときの危惧を、にじませていたものだった。

理不尽と悲惨の戦争体験から、のちの「リベラル政治家・田中角栄」は誕生している。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。