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アントニオ猪木「人がやらないこと、できないことをすべてやらせてもらった」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――最終回

アントニオ猪木さん
アントニオ猪木さん (C)週刊実話Web

〝燃える闘魂〟のキャッチフレーズ通り、最期までプロレスラーとして男のロマンを追い求めたアントニオ猪木。プロレス、格闘技界における功績は枚挙にいとまがなく、今もなお多くの日本人の心に、猪木の精神は生き続けている。

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「元気ですか!」「迷わず行けよ、行けば分かるさ」「1、2、3、ダァ~!」

こうしたアントニオ猪木にまつわる数々の言葉は、今や私たちの日常生活にすっかり浸透している。苦しいとき、決断を迫られたときなど、知らず知らずのうちに、これらの言葉を思い浮かべる人も多いだろう。

そんな猪木が79歳で亡くなってから1年以上が過ぎた。2019年に政界引退を発表した頃から、杖や車いすに頼るようになり、20年には「全身性アミロイドーシス」という難病にかかっていることを告白した。

これは全身の臓器細胞などの外側に、アミロイドという繊維状の異常タンパク質が付着して、機能不全を起こす病気。アミロイドが脳内に蓄積した場合には、アルツハイマー型認知症の原因になるとされ、現段階でその確実な治療は困難といわれる。

最期の瞬間まで事業意欲も旺盛

そんな病魔に侵されながらも、猪木は最期の瞬間まで闘い続けた。特に関心を寄せていたのが「水プラズマ」で、これは簡単に言うと「水の力で廃棄物を処理して新しいエネルギーを生成する」こと。猪木のこうした発明絡みの事業については、「アントン・ハイセル」や「永久電機」など失敗の印象が強い。

だが、20年時点の報道によれば、水プラズマに関しては公開実験にも成功しており、あとは設備の小型化や運用時のコストなど、実用に向けていくつかの課題を残すのみだったと伝えられる。そして、猪木はこの水プラズマによって、世界中のゴミ問題が解決されることを夢見ていたという。

亡くなる約1カ月前には、『24時間テレビ45』(日本テレビ系)に生出演。かつて激闘を繰り広げた東京・両国国技館に登場したものの、このときはもう車いすに乗ることも困難だったようで、「俺が元気を送ったつもりですけど、今日は皆さんから元気をもらっています」とコメントしている。

98年にプロレスラーを引退してからは、衰えた肉体をさらしてファンを失望させたくないと、たまにリングへ上がるときでも必ずTシャツなどを着用していた。しかし、そんな猪木でも21年に入院したあたりから、やせ細った姿を自身の公式YouTubeチャンネル『最後の闘魂』で公開するようになった。

猪木自身も「見せたくないでしょ、こんなザマを。みんなに見せたくないでしょ、普通は」としながらも、「こういう状況が分かってて、みんなに見てもらって弱い俺を。しょうがないじゃん」と語っていた。

プロレスラーとして、あるいは政治家として、常に闘う姿を世間に見せつけてきた猪木は、難病に立ち向かう姿も世間へ伝えようとしたわけだ。

魂を奮起させて生きざまを発信

プロレスにおいて猪木は、よく「市民権」という言葉を口にしていた。プロレスを一般的なスポーツと比較して、うさんくさいもの、時に八百長呼ばわりするような風潮が、かつては今以上に強かった。

プロレスをリング上だけでなく、社会全体においても広く称賛されるものにしたいと考え、そのためにさまざまな挑戦を繰り返した。

政治家や事業家としては、いち早く環境問題に取り組み、また日本だけにとどまらず世界全体を視野に入れた活動を志してきた。

YouTubeに投稿された最後の動画は、亡くなる10日前に撮影されたもので、すでにストローで水を吸うことすら困難な様子だった。

撮影スタッフから復活を望むファンの声を伝えられると、「この声が一番、俺の敵なの。でも敵がいる限りいいじゃないですか」と、猪木は自嘲気味に笑みを浮かべ、「人がやらないこと、できないことをすべてやらせてもらった」と己の人生を振り返った。

だが、それは決して平坦な道のりではなく、批判や中傷、裏切りもたくさん受けてきた。それでも猪木は「馬鹿になれ!」と自分自身に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせながら、不満や不服、世の不条理をぐっと飲み込んで、前に進むことをやめなかった。

動画の最後には、帰ろうとする撮影チームを呼び止めて、療養中の好物だったアイスの『ガリガリ君』を食べてみせた。

食べるといってもかぶり付くわけではなく、みぞれ状に崩したアイスを介護スタッフにスプーンで食べさせてもらう格好で、これは視聴者に向けて、少しでも元気な様子を見てもらおうというサービス精神の表れだった。

晩年になって死に至る難病というとんでもない〝強敵〟にぶち当たったが、猪木はそれに真正面から挑んでみせた。

その姿はきっと、猪木ファンだけではなく、多くの日本人の心に届いたに違いない。

猪木が生前に唱え続けてきた「元気があれば何でもできる」の精神は、現代の停滞した日本社会に最も必要なものかもしれない。

アントニオ猪木
PROFILE●1943年2月20日生まれ〜2022年10月1日没。本名・猪木寛至。神奈川県横浜市出身。13歳のときに一家でブラジルに移住。’60年に現地で力道山にスカウトされ、日本プロレス入門。’89年には史上初の国会議員レスラーとなる。

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