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沢村栄治「どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第89回

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(画像)PeopleImages.com – Yuri A/Shutterstock

全球団を通しシーズンで最も活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」は、日本球界における最高の栄誉の一つ。プロ野球の黎明期に本場アメリカと渡り合った沢村栄治の功績は色あせることがなく、また戦禍の悲劇は教訓として残り続ける。

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過去の名選手は、いったいどれくらいの力量だったのか。タイムや飛距離が明確な陸上競技、技の難易度が素人目にも分かる体操競技などは、まだ新旧の比較も容易だが、対人競技種目である球技や格闘技においては「歴代最高は誰か」ということが、たびたび大きな議論となる。

伝説の名投手、沢村栄治。身長174センチと現代のプロ野球選手と比べれば小柄な部類で、球界全体のレベルが低かった時代でもあることから、「いくら球が速かったといっても、せいぜい140キロぐらいだろう」という声が大勢を占める。

だが、2015年にNHKの報道番組『クローズアップ現代』で、沢村の試合映像を分析したところ、その球速は159キロと算出されている。

科学的な解析ではないため絶対とは言い切れないが、一方で、この映像の沢村が多くの写真で見られるように、高く脚を上げるフォームでなかったことから、「全力投球なら、もっと速かったはず」との見方もできよう。

実際に沢村の全盛期の投球を体感した選手たちの多くは、「直球が浮き上がってきた」と証言する。球が浮くように見えるということは、それだけ球威があったことに違いなく、沢村の直球は松坂大輔の「ジャイロボール」や、藤川球児の「ホップする火の玉ストレート」と同質であったとも考えられる。

仰天証言が続々伝説の速球投手

沢村と京都商業学校(現在の京都先端科学大学附属高校)でバッテリーを組み、甲子園出場も果たした山口千万石氏は生前、沢村の球を受け続けたことで「両手すべての指を脱臼した」と回想している。

当時の野球用具は粗末だったため、球を受ける側の左手指を脱臼したというのなら、まだ理解できる。しかし山口氏は、球を受ける手を後ろから支える右手の指まで脱臼したというのだ。指を骨折したことも数知れず、山口氏の両手の指は、野球をやめた後もずっと曲がったままだった。

沢村は1934年に開催された日米野球の「全日本軍」に17歳で選抜されると、高校を中退して代表入り。静岡県草薙球場における第10戦で、8回5安打の好投を披露した。

失点は「ドロップ(縦のカーブ)の曲がり口を打たれた」という7回のソロホームランのみで、ベーブ・ルースをはじめとする超一流のメジャーリーガーから9つの三振を奪ってみせた。

ただし、この快投劇の10日前、第5戦で先発した際には10失点の大炎上。日米野球を通しても5戦に登板(4先発)して0勝4敗、防御率7点台に終わっている。

ルースも自身の三振について沢村に賛辞を送る一方、「(マウンド後方から太陽が照るため)逆光がまぶしかった」と弁明している。

こうしたことから、沢村の好投を疑問視する声もあるのだが、実情はいくらか異なる。当時の沢村は、ドロップを投げる際に口元がゆがむ癖があり、全米軍はそれを狙い打ちしていた。ところが草薙球場に限っては沢村の顔が陰になり、よく見えなかったというのだ。

その頃の日本球界には癖を読むという概念すらなく、また、守備の連係も未熟だったことから、本来の実力より失点がかさんだ部分もあっただろう。

台湾沖に消えた巨人初代エース

翌35年、大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)の一員として米国に渡った沢村は、マイナーリーグ相手とはいえ21勝8敗、36年の遠征でも11勝11敗の成績を残している。

まだ20歳前だったことを思えば、もし大リーグに移籍しても通用する可能性があったに違いない。

米国遠征後、36年の夏季から国内リーグに参戦すると、同年の秋季にはプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成し、13勝を挙げて最多勝を獲得。37年の春季も、2度目のノーヒットノーランを含む24勝。最多勝、防御率、勝率、奪三振、完封数で投手5冠を達成し、その投球は「ピストルよりも速い直球」「懸河(滝のような急流のこと)のドロップ」「三段落ち」とたたえられた。

だが、38年には徴兵によって日中戦争へ出征。歩兵として数々の戦闘にも加わる中で、左手のひらを機関銃で撃ち抜かれ、マラリアにも感染した。

また、連隊の宣伝材料として頻繁に手榴弾投げ大会に駆り出されたことで、肩も壊してしまった。ちなみに当時の日本軍が主に使用していた手榴弾は約500グラムで、150グラム弱の硬式球の3倍以上の重さがあった。

しかし、そんな苦境にあっても、沢村は戦地から実弟に向けて「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」と手紙を送っている。

復員後はオーバースローで投げることができなくなり、肩への負担が少ないサイドスローに転向しながらも「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を乗り越えてきた者だけにしか味わえない」と語っている。

だが、制球力を大幅に乱していた沢村は44年に現役引退を余儀なくされ、さらに戦局の悪化による召集で京都の歩兵第9連隊に入営。同年12月、乗り込んだ軍隊輸送船が台湾沖で米海軍に沈められ、27歳の若さで戦死した。

実質5年間のプロ成績は105試合63勝22敗、防御率1.74だった。

沢村栄治
PROFILE●1917年2月1日生まれ。三重県出身。34年11月の日米野球で大リーグ選抜を相手に好投し、同年12月に大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)に入団。44年12月、フィリピン防衛戦に向かう途中、軍隊輸送船が撃沈され戦死した。

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