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高橋尚子「すごく楽しい42キロでした」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第87回

高橋尚子
高橋尚子 (C)週刊実話Web 

「Qちゃん」の愛称でアイドル的な人気を博した女子マラソンの高橋尚子。現役引退後も持ち前の明るさは変わらず、キャスターや解説者としてメディアで活躍する一方、陸上教室やマラソン大会などでスポーツの魅力を伝え続けている。

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2000年に開催されたシドニー五輪の女子マラソンで、スタートからトップ集団につけた高橋尚子は、18キロあたりからレースをリードし、22キロすぎにはルーマニアのリディア・シモンとの一騎打ちとなった。

34キロ付近をすぎた地点で、高橋は意を決したようにかけていたサングラスを投げ捨て、「シモンさんは手強いので並んでトラックに入りたくない」とスパートを敢行した。

一気に引き離した高橋は、その後、シモンに追い上げられたもののトップのまま押し切り、2時間23分14秒の五輪最高記録(当時)で優勝。日本人の女子陸上選手で初となる五輪金メダルの快挙だった。

オリンピック・スタジアムに詰めかけた観衆の大声援を受け、大きく両手を広げてゴールテープを切った高橋は、レース直後のインタビューに満面の笑みを浮かべながら「すごく楽しい42キロでした」と答えた。

楽しく走ることをモットーに掲げ、「このためにずっと練習してきたので、終わってしまってなんだか寂しい。また、明日から違う目標を持って楽しく走っていきたいと思います」と、にこやかに語る様子は、とかく努力や根性に偏重しがちだった日本のスポーツ界に、新たな風を吹き込むことになった。

どこか天然で明るい高橋のキャラクターはたちまち国民的人気を呼び、「ステーキでお肉2キロとかお寿司なら50貫とか食べる」などおよそ陸上選手らしくないエピソードも合わせて、好感をもって受け入れられた。

ちなみに高橋は現役時代、鶏の骨髄が大好物だった。フライドチキンの骨を割って、その中身をすするのだという。また、朝から生レバーを食べ、「ここが一番おいしいんです」と言ってマグロの目玉を食べる高橋の食生活を見て、増田明美は後年に「ホント気味が悪いと思いました」と明かしている。

同年10月には国民栄誉賞を受賞し、高橋の愛称「Qちゃん」は新語・流行語大賞でトップテン入り。なお「Qちゃん」とは、1997年まで所属していたリクルートの新入部員歓迎会で、アルミホイルでつくったボディコン風の衣装をまとい『オバケのQ太郎』を熱唱したことに由来する。

高校時代はどうにかインターハイに出場できるといったレベルで、大学進学後は学生のトップレベルまでなっていたが、とはいえ教師になるために教育実習も受けていたというから、この時点での実力は日本代表から程遠かった。

そんな高橋が世界的トップランナーにまで成長したのは、小出義雄監督率いる実業団リクルートの門を叩いたことがきっかけだった。大卒の選手は採用していないと一度は断られたが、無理を言ってリクルートの合宿に参加。そこで才能を見いだされ、高橋は小出監督から徹底指導を受けることになる。

小出監督は後年に著書の中で、高橋の強さの理由として「性格」を挙げている。強くなりたいという一心で走ることに夢中で取り組み、それがうれしくて仕方ない。どんなにきつい練習メニューを課しても、なんの疑問も挟まず素直に従ったことで、みるみる力をつけていったという。

無敵の快進撃と現役晩年の苦難

そんな高橋のハードトレーニングが実を結んだのは、小出監督と共に積水化学へ移籍してからのこと。98年3月の名古屋国際女子マラソンでは、当時の日本最高記録で初優勝。同年5月のIAAFグランプリ大阪大会の女子5000メートルでも、同大会では日本女子選手として初めての優勝を遂げている。

99年はたびたびの故障に苦しんだが、2000年3月、シドニー五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場すると、大会新記録で2年ぶり2度目の優勝を果たし、五輪代表の座をつかんだ。

シドニー五輪後に「指導してくれた監督、助けてくれた方々など、みんなの力が結集して生まれた金メダル。私は選手の役割を受け持っただけ」と話したのは、偽らざる高橋の本心だったろう。

01年9月のベルリンマラソンでも世界最高記録(当時)で優勝するなど快進撃は続いたが、02年の後半あたりからは故障や不調に見舞われ、04年アテネ五輪の代表選考では「実績のある高橋を選ぶかどうか」で議論が紛糾した。

結果的に落選となったが、このときのひと悶着は「いつも明るいQちゃん」という世間のイメージに影を落とすことにもなった。

08年の北京五輪でも代表選出を目指したが、すでに30代半ばという年齢もあって記録が伸びずに落選。同年10月の引退会見はテレビ各局で生中継され、約1時間の会見で高橋はずっと笑顔だったが、終了直後には目に涙を浮かべていた。

現役引退後、カツラで変装して1日中パチンコを打ち続ける姿が女性誌に掲載され、「パチンコ依存症」と心配されたが、これはあくまでも月に数回程度の息抜き。やるとなれば、何事にも真剣に挑む高橋の性格が招いた風評被害だった。

実際の高橋は、自らの名を冠した『高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン』をはじめ、全国各地のマラソン大会にゲスト参加を続けており、「走ることが今でも好き」と言ってはばからない。前向きで明るい性格も含めて、高橋の本質は今も昔もまったく変わっていないのだ。

高橋尚子
PROFILE●1972年5月6日生まれ。岐阜県出身。中学から本格的に陸上競技を始め、県岐阜商高、大阪学院大を経て実業団へ。2000年にシドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得し、同年に国民栄誉賞を受賞。08年に現役引退を発表。

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