『M-1はじめました。』東洋経済新報社/1760円
谷良一(たに・りょういち)
元吉本興業ホールディングス取締役 1956年滋賀県生まれ。京都大学文学部卒業後、81年吉本興業入社。横山やすし・西川きよし、笑福亭仁鶴、間寛平などのマネジャー、『なんばグランド花月』などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを経て、2001年漫才コンテスト『M-1グランプリ』を創設。
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――谷さんが『M−1グランプリ』(以下、『M−1』)を手掛けたきっかけは、何だったのですか?
谷 2001年当時、漫才は東京はもちろん、大阪でも低迷していました。この漫才を復興するために吉本内に漫才プロジェクトが作られ、私はたった1人のメンバーでした。そこでいろいろやっている中で、その中心になるものとして『M-1』ができたのです。
――『M−1』のコンセプトや優勝賞金などはどのようにして決まったのですか?
谷 私と島田紳助さんの2人で、最初に基本的なルールを決めました。それまでも漫才のコンテストはいくつかあったのですが、審査方法などが曖昧でした。なので人気や受賞歴、所属事務所は一切関係なく、その日の出来だけで審査をして、一番面白い漫才師が勝つというガチンコ勝負のルールにしました。また、漫才を復興するには吉本だけでなく、他の事務所の漫才師の参加が絶対必要だと考え、1000万円という破格の賞金で参加漫才師を増やそうと考えました。
審査員を探す苦労…
――島田紳助さんとは、どんなやり取りがあったのでしょうか?
谷 漫才復興のためにいろいろ考えていたのですが、行き詰まり、間寛平さんに話を聞いてもらいにテレビ局に行きました。その帰りに隣の楽屋の入り口をふと見ると、「島田紳助」と名札があったので、思い切ってドアを叩いたのです。紳助さんは漫才に大きくしてもらったが、自分は8年で漫才を辞めてしまったため漫才界に負い目を感じていました。そこに、もう一度漫才ブームを起こしたいという私が現れ、2人の思いが一致して、『M-1』の発想が生まれたのです。
――審査員の人選には苦労したとか。どのようにして決まったのでしょうか?
谷 それまでの漫才の新人コンテストは、お笑い関係者に交じって文化人が審査員に入っていることが多く、中には歌手や俳優などもいました。そういう人たちは審査にほとんど口出ししなかったと思いますが。密室でどのように審査が行われたのかファンはまったく分からない。なので『M-1』はお笑いに関係のある人だけにしようと考えました。『M-1』では点数が明らかにされるので、審査員もファンから審査されることになる。いい加減な点数をつけたり、基準がぶれていたりすると、「この人は笑いが分かっていないのでは」と疑われます。また、悪い点数をつけたら、その漫才師のファンから嫌われるというリスクもあります。そのため、毎年審査員のなり手がなく、やってくれる人を探すのが一苦労でした。
(聞き手/程原ケン)
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