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漫才師たちの将来をも決める「M‐1」~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

史上最多の8540組がエントリーした『M‐1グランプリ2023』が昨年12月24日に放送されました。M‐1は元々、弟弟子の島田紳助と元吉本興業の谷良一さんが企画し立ち上げた大会で、俺も5年ほど審査員を務めましたよ。


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谷さんは『M‐1はじめました。』(東洋経済新報社)を出版して話題になっています。俺にも著書を送ってくれました。やはり、年に一度、大きな漫才の大会があるのは素晴らしいことです。漫才師にとって目標になりますからね。

準決勝まで残るようなコンビなら、これまで名が売れていなくてもテレビ局は一度番組に使ってみようとなるでしょ。野球だって、入団会見やキャンプがあって、皆さんにお披露目する機会になるわけですから。

俺らのときはNHK上方漫才コンテストが今のM‐1のような大会でした。上方よしおと組んでいた2代目B&Bのときに優秀話術賞、洋八と組んでから優秀努力賞をもらいました。50年近く前だけど、賞金は5万円。2人で分けて2万5000円でした。当時、家賃が7000円のアパートに住んでいた俺にとっては大金でしたよ。嫁さんと北海道ラーメンの店へ行って、いつもは食べられないチャーシュー麺に餃子も頼んだのを覚えています。

賞金の多さや少なさではないんです。上方漫才コンテストの賞受賞はM‐1ほどではないにしろ、色んな番組に出演するきっかけになりましたね。

その後、漫才ブームが到来。4~5年で漫才の番組ばかりになってしまったんです。漫才の番組はリハーサルが必要ない。出演者と順番を決めるだけで、比較的簡単に番組を作ることができるんです。

M‐1の審査員や出場者は…

結果、どうなったかというと、視聴者が漫才に飽きてしまったんですよ。だから、M‐1や『爆笑レッドカーペット』といったお笑い番組がヒットするまで、テレビで漫才番組は十数年間衰退したままだったんです。漫才番組を復活させたのが、M‐1やレッドカーペットなんですよ。

俺も5回、M‐1の審査員をしましたけど、あの短時間で将来性まで判断するのは難しいですね。俺の審査基準は、会場のお客さんがどれくらい笑っているか、俺が面白いかどうかで判断していました。会場でウケなかったコンビは絶対に勝ち上がりません。人によって面白いかどうかも考えませんでしたよ。

審査員批判がありますけど、ちょっと筋が違うなと思います。優勝と準優勝なら人によっては逆になることがあるかもしれませんけど、野球でストライクとボールを主審に文句を言ったら退場になりますよ。

また、審査員は審査員で責任感が強すぎです。あの舞台の一瞬だけで一番面白いコンビを選べば良いんです。あと、審査員は漫才をやったことのある人にしたほうが良いですね。またも野球の例ですけど、野球の解説を元プロ野球選手以外はしないでしょ。

出場する漫才師は、芸歴5年で1回戦を通過しないようなら、個人的には将来を考え直したほうが良いと思いますね。10年の芸歴で準決勝くらいには進みたいところ。それくらいの芸を披露できないなら、他の人生もあるんじゃないかと個人的には思いますね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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