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田淵幸一「逃げたら終わり」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第70回

Andrey Yurlov
(画像)Andrey Yurlov/Shutterstock

今季18年ぶりのセ・リーグ制覇を果たした阪神タイガース。その歴史を彩ってきた名選手たちの中でも、あらゆる面で話題に事欠かない田淵幸一の存在は別格だ。いまだファンの心に残る〝ホームラン・アーチスト〟の魅力に迫る!

高く舞い上がった打球が、緩やかな放物線を描いて外野スタンドへ吸い込まれていく。その軌道の美しさから〝ホームラン・アーチスト〟と呼ばれた田淵幸一。

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通算474本塁打は歴代11位にとどまるが、現役16年間での打数は5881。通算476本塁打の金本知憲は現役21年間で8915打数だから、本塁打率は田淵のほうが圧倒的に高い。400本塁打以上の打者で見ると、田淵の「12.41打数に1本」という数字は、王貞治(9250打数868本塁打で本塁打率は10.66)に次ぐ歴代2位である。

田淵が長距離打者として覚醒したのは高校時代。風邪をひいて本調子ではない状態で打撃練習を行ったところ、自分の想像以上に打球が飛んだことから「打撃は力ではない」と悟ったのだという。

プロ入り後は阪神の本拠地である甲子園球場の名物〝浜風〟を克服するため、振るのではなく押す打法を研究した。右打者の強く引っ張った打球はスピンがかかり、浜風に流されてファウルになることが多い。そのためステップやテイクバック、手首のスナップを最小限にとどめ、体の軸回転でボールにバットをぶつけていく。これが滞空時間の長い田淵独特のホームランを生み出すことになった。

劇場版アニメにもなった漫画『がんばれ!!タブチくん!!』のイメージから、田淵本人のことも〝明るくてドジなおデブちゃん〟と認識している人は多いだろう。実際、性格は漫画の主人公と同様に明るく、周囲から好かれる人柄であったことは確かで、いくら漫画で悪く描かれても笑って愛読していたとの話もある。

だが、高校1年時から長く正捕手を務めてきたように、優れた野球知識と技術があったことは明らかだ。アマチュアでも身体能力だけの選手には限界がある。日々の研究も怠らず、プロ入り後は最大の壁であった王を徹底的に観察し、その長所を分析して自身の打撃に取り入れていた。

「当時はまだビデオなんてなかった時代。目で見て盗むしかなかった。その意味では捕手というポジションはうってつけ。一番近くで王さんの打撃を見られたんだから」

また、阪神入団時には剛速球で鳴らした江夏豊から、「ボールを受けたときにミットが動いている」と指摘され、その球威に負けないよう日常生活でも常に鉄アレイで二の腕を鍛える努力家の一面もあった。

頭部への死球で死線をさまよう

1970年8月26日の広島戦では、外木場義郎の投じたストレートが左側頭部を直撃。田淵はその場に昏倒し、耳からは大量の血が流れ出ていた。この死球によって田淵は生死の境をさまよい、後年に「三途の川って本当にあるんだぞ」と語ったほどの重傷だった。

それでも田淵は「逃げたら終わり」とバットを振り続け、翌年に復帰すると入団3年間で通算61本塁打という、今年、佐藤輝明に抜かれるまでの球団記録を樹立した。死球の後遺症に苦しむ選手が多い中、田淵はド根性の人でもあったのだ。

ただ、そんな田淵を〝ミスター・タイガース〟と呼ぶことについては、阪神ファンの間でも意見が分かれるところである。その理由としては、まず田淵のキャリア前半が巨人のV9と重なり、阪神での優勝を経験していないことが大きい。

さらに、西武への2対4トレード(阪神・田淵、古沢憲司⇔西武・真弓明信、竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史)が決まった78年以降、阪神は優勝争いから遠ざかる暗黒期に突入。一方の田淵は、その間に西武で2度の日本一を経験しており、阪神ファンからすると、どこか納得のいかない気持ちもあった。

また、西武移籍後も含めて、ほぼ毎年のように何かしらの故障で戦列を離れたことも、田淵の評価を下げる一因となった。腎炎を患った際の投薬治療が原因で太り始めると、肘や膝の故障も重なって捕手としての動きが鈍くなり、これについては田淵自身も「僕は当時、走れない、守れない選手の典型と言われてましたから」と語っている。

とはいえチームの看板を自負していた田淵からすると、阪神から西武へのトレードは不本意なものだった。深夜に球団から呼び出されてトレード通告を受け、記者たちが大勢集まっている中でさらし者にされたことに怒り、心中には長く不満がくすぶっていた。

そのため、引退後に阪神からコーチ就任を要請された際には、過去の確執からこれを断っており、そのくせダイエーの監督になったことも、阪神ファンからすると裏切られた気持ちがあっただろう。

結局、田淵は2001年12月に阪神復帰を果たす。親友である星野仙一の監督就任に伴い、チーフ打撃コーチとして入閣したわけだが、田淵は打撃力の大幅アップを実現し、03年のリーグ制覇に貢献。これをもって田淵をミスター・タイガースとすることが、報道機関を中心に一般化しつつある。

しかしながら、11年には再び星野に誘われ、東北楽天のヘッド兼打撃コーチに就任。持ち前の気立ての良さで叱られ役に徹していて、これも阪神ファンからすると納得のいかないものだったかもしれない。
《文・脇本深八》

田淵幸一
PROFILE●1946年9月24日生まれ、東京都出身。法政一高から法大に進み、通算22本の六大学最多本塁打(当時)をマーク。’68年ドラフト1位で阪神入団。’75年に本塁打王を獲得。’78年オフに西武へ移籍し’82年、’83年の連続日本一に貢献。

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