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おとなしくて出待ちも少なかった乙女塾ファン~第7回『放送作家の半世(反省)記』

Roman Samborskyi
(画像)Roman Samborskyi/Shutterstock

私も参加したフジテレビ系のバラエティー番組『パラダイスGoGo!!』は1989年4月クールにスタートしたが、結果的にはおニャン子クラブの後継グループやトップクラスのアイドルを輩出することなく、翌90年3月をもって終了。鳴り物入りで始まったものの、たった1年で打ち切りの憂き目に遭う。

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実は番組スタート時から視聴率が低迷し、半年後には放送時間が1時間から半分の30分に短縮され、さらに土曜日の昼、月1回放送の行政番組『月刊ストレス解消テレビ』までもが始まっていた。この行政番組とは、もちろん本物の行政とは関係なく、テレビ局と番組制作会社、芸能プロダクションの相互利害の上に成り立つ保険みたいなもの。要するに、それなりにオイシイ条件を提示して新番組に引っ張ってきたタレント、スタッフへのギャラの追加保障とでも言おうか、その受け皿にするための番組だ。

フジテレビ側は、おニャン子クラブの後継グループとして結成させた乙女塾が思うように売れず、だからといって1年で放り出すわけにもいかないので、新たなレギュラー番組を立ち上げる必要があったのだ。現在、この乙女塾の元メンバーで芸能界に残っているのは、女優の永作博美と三浦理恵子ぐらいのものか。

2人はribbon(永作)、CoCo(三浦)のメンバーとしてもCDデビューを果たしているが、オリコンチャートで1位を獲得したことが一度もなく、この点で初登場1位が当たり前だったおニャン子クラブとは大きく違っていた。

打ち切りの予兆か…

また、おニャン子クラブの『夕やけニャンニャン』と乙女塾の『パラダイスGoGo!!』は、共に東京都新宿区河田町、当時のフジテレビ本社から生放送されていたが、おニャン子クラブには追っかけのヤンキー車が群がっていたのに対し、乙女塾には徒歩で訪れるファンの出待ちすら溜まっていないことも多かった。

出待ちは禁止行為ではあるが、同時に人気のバロメーターにもなっていたので、ここに番組が1年で打ち切りになる予兆が示されていたのではないだろうか。さらに、番組スタッフも6割程度が『夕やけニャンニャン』からの残党で、皮肉なのか本心なのかは分からないが、よく「乙女塾の番組は出待ちを力ずくで排除しなくていいから気が楽」と口にするADもいた。確かに私も数多くのアイドル番組、イベントを担当してきたが、乙女塾のファンほどおとなしい「界隈」はなかった気がする。

そんな『パラダイスGoGo!!』が生み出した唯一(?)のスターは、私が担当していた月曜日のコーナー企画「勝ち抜きフォークソング合戦」で見事チャンピオンに輝いたTHE 真心ブラザーズ(現・真心ブラザーズ)だろう。番組に出演するために急造グループを結成した彼らは、コミックソング『ハナゲ』を引っ提げて登場し、大きなインパクトを残した。

当時の2人は現役の早大生で、すぐさま番組プロデューサーのK氏がレコード会社に売り込む姿が印象的だった。ただ、そのときは大学生のために骨を折る優しいプロデューサーかと思っていたら、デビュー曲の版権を番組が押さえ、乙女塾が売れなかった場合の補填にすると聞いて心底がっかりした覚えがある。

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