社会

『性産業“裏”偉人伝』第27回/真栄原社交街のちょんの間経営者~ノンフィクションライター・八木澤高明

tutae
(画像)tutae / Shutterstock.com

真栄原社交街のちょんの間経営者(沖縄在住・山本さん・70代)

「こっちにハマっちゃって、帰りたくないんですよ」

夏の暑い盛り、20代前半と思しき娼婦のつぶやきが今も耳にへばりついている。

娼婦がいたのは、沖縄にかつて存在した真栄原社交街(宜野湾市)。狭い露地という露地にちょんの間が軒を連ねて、闇夜にまばゆき光を放っていた。

件の娼婦は名古屋出身で、沖縄に遊びに来てそのまま暮らしたいと、ちょんの間で働き出したと言った。

果たして、その言葉が真実を語っているのかどうか定かではない。しかし、彼女の風貌からは、娼婦らしからぬ健やかさのようなものが漂っていた。

【関連】『性産業“裏”偉人伝』第26回/10億以上貢がせた伝説の女~ノンフィクションライター・八木澤高明 ほか

真栄原社交街からは、色街特有の気だるさと、娼婦然としていない女性のアンバランスも心に残っている。

2009年の摘発により、今では色街の明かりは消え、娼婦たちの姿もない。

米兵相手から観光客中心に

真栄原社交街のルーツを辿ると、戦後、米兵相手の色街として始まった。戦後の混乱期、生活の糧を得るために、女性たちは体を開いたのだった。

日本経済が空前の経済成長を遂げるとともに、沖縄のちょんの間は、米兵相手から本土からの観光客を相手にしたものへと、客層が代わる。そして働く女性たちも、いつしか地元よりも本土の女性たちがアルバイト感覚で体を売る場所となっていった。

米兵たちの性のはけ口という本来、沖縄の色街が持っていた意味が薄れ、売春の形態が基地売春から観光売春へと変わったのだ。そして、その後2000年代に始まった全国規模の色街摘発によって、街の灯は消えた。

私は真栄原社交街の歴史を少しでも記録しておきたいと思い、ちょんの間を経営していた男に話を聞いた。

その男は、山本と名乗った。目鼻立ちのはっきりとしたアメリカ人とのハーフだった。彼は自分の出自について話すことを嫌がった。ただ、真栄原社交街での日々については饒舌に口を開いてくれたのだった。

「知り合いが店をやっていて、体調を崩したから代わりにやらないかって言われたのがきっかけだよ。2年ぐらいの契約で、家賃は20万円、権利金が150万円だった。当時はどの店も儲かっていて、みんなやりたがっていたから、そんな値段でもぼんぼん借り手が見つかったんだ」

果たして、どれほどの稼ぎになったのか。

「店の維持費は、コンドームや濡れティッシュ、女の子の送迎代とガソリン代、それに食事代を入れて、1日に1万円から1万5000円、経費を差し引いて1日に手取りで8万円にはなった。女の子も、稼ぐ子は3万円は稼いでいたな。稼がない子でも、1万5000円は持って帰ってたんじゃないか。真栄原は15分5000円の料金で、取り分が基本は店4分で女の子6分。それだけじゃなくて、景気の良かったときにはチップももらえたから、単価は低いけど十分な稼ぎになったはずだよ」

店では昼間は2人、夜は6人ほどの女性を使っていた。出身は、沖縄と本土が半々だったという。

「70、80歳の爺さんまで来た」

時に求人広告を出したこともあったが、多くが自ら「働きたい」と人伝てに言ってきたと山本は語った。

女性たちは、「事情」を抱えた者が多かった。

「ホスト遊びして借金作ったり貢いだりしてる女の子、電気代が払えないからって、何日かだけ働く子もいた。あとは子持ちだね。沖縄は給料が安いから、家族を養うためにこういう場所で働く子は多かったと思う」

山本の店で働く女性は、家族のため、生活のために働く者が多かったという。

米兵相手の売春街としてスタートした真栄原。客の比率は、どうだったのか。

「外人は禁止の店が多かった。うちの店も外人禁止。外人を入れると、本土の男も沖縄の男も来なくなっちゃうんだ。あの女は外人とやったって敬遠される。真栄原じゃ外人を断る店が多かったよ」

ほとんどが日本人の客だったというが、年齢層はさまざまだった。

「20歳前の若者から、70、80の爺さんまで来た。酔っぱらった客は入れなかったな、必ずトラブルになるからよ。うちの店ではなかったけど、老人が腹上死したこともあった。1人じゃなくて、2〜3人死んでる。そんなのは発表できないから、公になんないけどね」

真栄原でのちょんの間経営時代は、年中無休、24時間働き詰めだったという。

「営業中は帳場で金の管理。必ず前金、それを部屋に置いとくと盗まれるから、帳場で預かっとく。一番忙しいのは夜の11時から3時まで。それ以降は客が減るけど、5時ぐらいまでは開けてた。それから家に帰って、昼前には店に来てトイレや部屋の掃除をして、買い出しにも行くんだよ」

買い出しの中で特に気を使ったのは、女性が股間に塗るローションだった。

「好きでもない男とやるわけだからさ。どれでもいいってわけじゃなくて、波の上の薬局で買ってくるんだよ。ソープで使ってるのと同じのが手に入るんだ。安いのを買うと女性器の中が荒れるから駄目なんだよ」

この町で商売をした日々は、1日8万の稼ぎがあり、かなり儲けがあった。

「何も儲からなかったよ。入るには入って来たけど、働いている女の子を遊びに連れてったり、俺も遊んじゃったから、金は残らなかった。何年もやる仕事じゃないと思ったから、やめたんだ。子供もいるし、さすがにパクられたら合わす顔もないだろ」

そう言って、声を上げて笑った山本。そして、「もういいだろう」と言って、色街の貴重な証言者は去って行った。

八木澤高明(やぎさわ・たかあき)
神奈川県横浜市出身。写真週刊誌勤務を経てフリーに。『マオキッズ毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回 小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞。著書多数。

あわせて読みたい