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『性産業“裏”偉人伝』第25回/もう一つの「売春島」~ノンフィクションライター・八木澤高明

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(画像)setyo.nugroho/Shutterstock

もう一つの「売春島」(広島県在住・80代)

1000を超える自然島があるといわれる瀬戸内海。そのうちの一つ、広島県呉市沖に浮かぶ大崎下島に、御手洗という小さな港町がある。ここは古くから瀬戸内海を行き交う船の風待ちの港として栄えたところで、船乗り相手の遊女たちがいたことが確認されている。その起源は判然としないが、少なくとも安土桃山時代にまでさかのぼることができるという。

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島が最も栄えたのは、江戸時代中期以降のこと。大阪と北日本を結ぶ、いわゆる北前船が、航海技術の発達とともに次第に陸地を離れて沖合を航海するようになったため、本州と四国のちょうど中間に位置する大崎下島の御手洗が風待ちの港として最適な場所となったのだった。

同様に、水上交通の要地であったがために色街が栄えた島として、以前、この連載でも取り上げた三重県の渡鹿野島が挙げられる。この島も江戸時代に風待ちの港だったことをルーツとし、のちに「売春島」と呼ばれた。

私が取材のため大崎下島を訪れた日は、穏やかな瀬戸内海が眼前に広がっていた。島の北東部に位置する御手洗地区は、1994年に重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されたこともあり、趣のある木造建築が数多く残っている。ここでは、売春防止法が完全施行された昭和33年まで、300年ほどにわたって売春が行われていたのだ。

ここで、売春防止法が施行するまで、家族で売春に携わっていたという男性に話を聞いた。その男性の家は、江戸時代後期の文政年間に完成した、石積みの港の近くにあった。

ちなみに、堤防の付け根には住吉神社があって、遊女たちからも信仰を集めていたという。この神社には遊女が寄進した狛犬も残されていた。これまで遊女が寄進した玉垣は見たことがあったものの、狛犬を見たのは初めてだった。

「昔、この港の周辺は、花街一色だったそうですよ」

男性は穏やかな口調で話を始めた。今では鄙びた漁村という雰囲気しか残っておらず、そんな姿は想像できないのだった。

「昭和30年代までは、船が50隻から100隻はこの港に入ったんです。それだから、船乗りが遊んだもんです。売春は、うちも婆さんがやっておりました。柴屋さんという庄屋さんの建物が町の中にあるんですが、そこでやっていたんです。私はそこで生まれました」

男性には、娼婦たちが家に出入りしていた記憶はないという。

「売防法が施行されたとき、私は小学生の低学年だったんですけど、まったく覚えてないんですよ。でも3つ上の姉は覚えているようで、べっぴんのお姉さんがいっぱいおったと言っていました。ただ、町が賑やかだったことだけは覚えております。毎日が祭りのようでしたね。私より年上のお年寄りたちから、『売防法が施行されるまで、御手洗はまっすぐ歩けなかった』と聞きました。それほど人が多かったんです。そして、港の防波堤にはよそから来た出店がずらっと並んでいたんです」

一晩で米兵200人を骨抜きに

男性の祖母は、家業に関して隠すことはなく、昔話をしてくれたという。その中でも特に記憶に残るのは、戦争中の話だった。

「広島の呉では、戦艦大和を建造したり、江田島にも海軍の兵学校があって、軍隊とは縁が深いんですね。戦争の末期には特攻隊があったでしょう。死に臨む彼らに、男として生まれながら女を知らずに死ぬのは可哀想だということで、御手洗の女の人が呼ばれたそうです」

軍都であった呉にも、御手洗から女性が働きに出たという。

「呉の朝日町遊廓にも、御手洗の業者が女の人を連れて営業していたんです。戦争中の空襲で、たくさんの女性が亡くなってしまいました。友達のお父さんが御手洗の検番をやっていたんで、代表して骨を引き取りに行ったんです。国鉄の呉線が空襲で駄目になっていたため、山陽本線で広島を経由して向かったんですが、そこを原爆でやられてしまったそうです」

呉との縁は、戦争が終わってからも続いた。日本の軍人たちに代わって、米兵たちの相手をしたのだった。

「中学生ぐらいのとき、祖母が米兵の話をしてくれたんです。『米兵は次から次へと来たな。金を持っとるから、飲む、打つ、買うじゃろ。200人を相手にしたんじゃ』と。そんな話をしてくれました」

200人という人数が気になった。店に来た客の数かと確認すると、男性は首を横に振った。

「いやいや、1人の女性がどんどんやって来る200人を相手にしたそうです。戦地から来た男たちは、やりたくて仕方がないんですよ。『女は化け物だぞ』と、祖母は言っていたんです」

かつて1日20人を相手にした娼婦に話を聞いたことはあったが、さすがに200人とは驚いた。

男性の家族は、いつから売春に携わったのだろうか。

「昭和の初めに女性を置いて商売を始めたそうです。それから売防法まで、商売を続けました。店には、〝御手洗一の美人〟がいたそうですよ」

遊郭が栄えた御手洗だが、そこで働く女性たちは、どこから来たのだろうか。とてもこの島の女性たちだけでは足りなかったはずだ。

「出身地については、詳しく知りません。でも、ヤクザが写真を見せに来て、10代から20代の女の人を売りに来たそうです」

貴重な男性の話から、色街としての御手洗の歴史の深さを感じずにはいられなかった。

八木澤高明(やぎさわ・たかあき)
神奈川県横浜市出身。写真週刊誌勤務を経てフリーに。『マオキッズ毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回 小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞。著書多数。

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