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悪行の果てに破滅した“トンデモ皇帝”たち…古代ローマ悪帝伝

Andrey Yurlov
(画像)Andrey Yurlov/Shutterstock

イタリア半島に誕生した都市国家は王政、共和政を経て、紀元前1世紀には地中海全域をのみ込む巨大帝国へと成長を遂げた。隆盛を誇った古代ローマの制度や文化は、あらゆる分野に影響を与え、人類の永続的な遺産となっているが、その輝かしい栄光の陰には少なくない「とんでも皇帝」たちが存在した。悪行の限りを尽くした暴君の実像に迫る!

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ローマ帝国の第3代皇帝は通称カリギュラ(在位37〜41年)として知られるが、これは幼少の頃に履いていた小さな軍靴に由来する愛称で、正式な名前はガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという。

1980年公開の映画『カリギュラ』は歴史超大作との触れ込みで公開されたが、その実態はアメリカの男性誌『ペントハウス』のオーナーによって製作されたハードコア・ポルノであった。退廃したローマにおいて、カリギュラが暴虐と性愛の限りを尽くすという内容で、日本公開時はまだフルオープン解禁の前だったため、性器を隠すためのボカシだらけで意味不明な作品になっていた。

では、実際のカリギュラがどんな人物だったのかといえば、同時代の文献には〈自分自身のこと以外には興味がなく、常に怒りに満ちていて、気まぐれで人を殺し、公金を無闇やたらと使いまくる〉〈行為に溺れた狂気の皇帝〉などと記されている。後代の史料も、そのほとんどが〈狂気じみた残忍な独裁者〉〈浪費癖や性的倒錯の持ち主〉などとしており、まさに暴君の見本のようなイメージが定着している。

しかし、その一方で皇帝となった初期の頃には、ローマ市街の道路整備や新しい水路の建設など、住環境の改善を図っていた。また、長らく禁止されていた剣闘士による試合を復活させ、市民からの人気を獲得したという記述もある。

これがおかしくなったのはカリギュラが病に倒れ、3カ月にわたる昏睡状態に陥ってからのこと。全快したものの精神に異常をきたしており、忠誠を誓っていた側近を次々に殺害したうえ、義父や養子に迎えた従弟にも自害を強要した。

また、もしも後ろ盾のカリギュラが死んでしまえば、親族として厚遇されていた3人の妹たちは立場がなくなる。これを危惧した3人姉妹の長女は、「カリギュラと自分の間に子供をつくって帝位を継承しよう」と画策した。

当時のローマにおいても近親相姦はタブーとされていたが、カリギュラ自身も後継者を欲していたため、この提案を承諾。長女との間に子供ができないことが分かると、下の妹2人とも関係を持つようになった。

その後、自らを神格化したカリギュラは神殿や記念碑をローマ各地に建造させ、日頃の浪費もあって国の財政が傾くと、その妹たちに売春をさせるようになったとも伝えられる。

さらに、反逆罪をでっち上げて金持ちを捕縛し、その財産を没収するなどの恐怖政治が市民の知るところとなると、一時の人気は失墜。近親相姦に耽る狂気の皇帝は、最終的に近衛隊将校の手で暗殺されたが、元老院議員や軍人の多くが計画を事前に知らされ、これに関与していたといわれる。

カリギュラの在位期間はわずか4年足らずで、28歳にして人生の幕を閉じることになった。

暴君ネロの〝虚像と実像〟

類いまれな暴君として有名な第5代皇帝のネロ(在位54〜68年)は、前皇帝クラウディウスの死去を受けて16歳で即位した。

治世初期、ネロは意外にも名君の誉れが高かったが、数年後には周辺との間に微妙な緊張関係が見られるようになってくる。こうしてネロは55年、帝位継承権を有していた義弟を殺害すると、59年に母親、62年に妻、65年に恩師のセネカを次々と死に追いやった。

また、64年にローマ市街で大火が起こると、これにかこつけて人類史上初めてキリスト教徒を迫害。実はこの大火は自作自演で、ネロは燃え上がるローマ市街を宮廷から見下ろし、竪琴を奏でながら歌っていたとの逸話もある。

一方でネロは芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛した。自らコンサートを開いたり、劇場の舞台に立ったり、当時の社会では軽蔑されていた芸人に、ネロは皇帝でありながら憧れていたという。

さらに、古代オリンピックに出場したネロは、忖度した主催者側が大胆な出来レースを用意したことで、1800にも及ぶ栄冠を獲得。しかし、戦車競技では戦車から落下して競争除外になりながらも、なぜか優勝扱いになっていたという有り様で、不正だらけの勝利には批判が続出した。

そんな中、穀物価格が高騰すると、ローマ各地で反乱が勃発する。元老院から「国家の敵」と決議されたネロは、ローマ郊外にある解放奴隷の別荘に隠れたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの剣で喉を突き自害した。30歳没。

ただ、こうしたネロの暴君としての人物像は、後年の歴史書や小説、映画などによる創作によって定着したともいわれる。確かに周囲から追及されたからといって、あっさり皇帝が自殺するのも妙な話ではある。

ローマ大火の際、ネロが地方に出払っていたとする研究もあり、近親者や側近を殺害したことについても、当時の権力闘争においては決して珍しいことではない。それにもかかわらず誹りを受けるようになった背景には、キリスト教への迫害があった。

当時、ローマ帝国では伝統的な多神教が信仰されていたが、ユダヤ教やキリスト教など一神教の信者たちは、そこで過度な布教を行い、しばしば国家への反抗的な姿勢を見せていた。

それもあってネロは、ローマ大火をキリスト教徒の犯行として大弾圧を実行したのだが、後年に同教が世界的に広まったことにより、これを迫害したネロが悪者とみなされることになったわけである。

常軌を逸した〝変態皇帝〟

第23代皇帝のヘリオガバルス(在位218〜222年)は、古代ローマ帝国のみならず世界史上でも珍しい性癖で知られる。

14歳で皇帝に即位すると、4年ほどの治世において3人の妻を迎え、復縁も含めて4度の結婚と離婚を繰り返した。この中には処女として神に仕える巫女をレイプして、強引に妻とした例もあった。なお、これらは正式に婚姻を認められたものだけで、ほかにも多数の愛人がいたとされる。

この時点では相当な女好きのように見える。しかし、ある時期から自らを「女性である」と宣言し、女性の従者を伴って、公衆浴場の女湯へ入ることを日常的に繰り返すようになった。

化粧をして髪を伸ばし、女性用の衣服で着飾ったヘリオガバルスは、奴隷身分の男と5度目の「結婚」をして周囲を驚かせた。これにとどまらず密偵を使って、容姿端麗で性器が巨大な男を探させたともいう。

酒場の娼婦に男を誘う仕草を習い、宮殿にまで男を誘って情事を楽しんだヘリオガバルスは、このとき胸と股間を手で隠しながら、相手の男に向けて尻を振っていたとも伝えられる。

とはいえ皇帝は男色に興味がなく、女性としての自分に興味を示した相手にだけ、その身を捧げていた。しかし、猟奇的な逸話もあり、お気に入りの男が浮気をした際には、無慈悲にも性器を切り落とし、宮廷で飼っていた猛獣のエサにしたという。

特異な性癖に関しては、さまざまな文献に記述が残されており、自分の性器を切り落として性別適合手術を施すことまで考えていたようだ。このことからヘリオガバルスは、現在のトランスジェンダー女性であったと考える学者は多い。

さらに、皇帝は自身で興した宗教を信仰し、神殿に向かって全裸で踊り狂い、青年を生贄として捧げたりもした。こうした振る舞いは国民からの反発を買ったうえ、政治面で後見役を務めてきた祖母から見放される原因にもなった。

結局、祖母が後継の皇帝擁立を画策すると、近衛兵たちもこれを支持して蜂起。女装姿で捕らえられたヘリオガバルスは、長く伸ばした髪を切り落とされ、衣服に開けた穴から性器を露出させる辱めを受けた。

取り囲む民衆に罵声を浴びせられながら、18歳の皇帝は性器を切り落とされて、実母と共に殺害された。遺体は引き回しの末に切り刻まれ、ローマ市内の川に捨てられたという。

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