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『性産業“裏”偉人伝』第23回/色街のタクシードライバー~ノンフィクションライター・八木澤高明

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(画像)sladkozaponi/Shutterstock

色街のタクシードライバー(江口さん・北海道在住・50代)

もう10年以上前の話になってしまうが、沖縄にはいくつものちょんの間があって、連日連夜、男たちの姿でごった返していたことがあった。

沖縄の風俗といえば、もともとは、米兵を相手にする色街だった。それが、いつしか、日本人相手の店となっていった。

代表的なちょんの間といえば、宜野湾市の真栄原と沖縄市の吉原だった。この2つのちょんの間では、次第に米兵の入店を断る店が多くなり、結果的に彼らの遊ぶ場所は狭まっていった。

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私も2000年代の初頭に何度か沖縄のちょんの間を歩いたが、米兵の姿を見かけることはなかった。中には「米兵お断り」の貼り紙を出す店まであって、驚くとともに、なんとなく気の毒に思ったものだった。

かつてちょんの間を経営していた男性によれば、彼らには日本語も通じないし、持っているものも立派なので、店の女の子が嫌がるようになったという。そして、いつしか米兵たちを断るようになったのだった。

今も沖縄といえば、国防の最前線であり、米軍の施設が31もあり、県の総面積の約8%も米軍基地が占めている。その基地に勤務する米兵たちは、現代の「防人」として沖縄に暮らしている。当然ながら、妻帯者でなければ、ちょっと遊びたくなるものである。

そんなときに、米兵たちが頼ったのが、「班長」と呼ばれる日本人のタクシードライバーだった。

私は、米兵たちを彼らが遊べる色街に送り込んでいたタクシードライバーの男性に話を聞いた。名前は江口といい、現在は転職して故郷の北海道で運送業をしている。

「米兵は、なぜかタクシードライバーのことを班長と言うんですよ。若い連中はちょんの間にも行けないし、辻(那覇市)のソープランドぐらいしか遊べる場所がないんでね。ソープでも入れる店は限られているので、日本に来て最初に遊ぶときは、タクシードライバーの案内が必要なんですよ」

15年ほど沖縄で米兵相手のタクシードライバーをした江口。彼らの言葉が、今も耳に残っているという。

「ハンチョー、ハブァ、ハブァ、ソーピー、ソーピー」

「ハンチョー」は「班長」、「ハブァ」は「急げ」、「ソーピー」とは「ソープランド」のことだ。米兵たちの英語だか日本語だか分からない謎の言葉、その独特の言い回しを時折思い出すことがあるという。

調べてみると、「ハブァ」なる言葉は、敗戦後に進駐してきた米軍によってもたらされたものだという。そんな言葉が沖縄では今も残っていて、一つの俗語からも沖縄と米軍の濃密な関係が浮かび上がってくる。

そもそも、北海道出身の江口が、なぜ沖縄でタクシー運転手をしていたのか。

「実は札幌で沖縄出身の女性と出会ってね。その子を追いかけてきたんだよ。結局、その子には逃げられたけど、こっちの気候も気に入ったから、そのまま住むことにしたんだよ」

女性が縁というなんとも男くさい理由で沖縄に移住し、タクシー運転手となったと明かす江口。運転手を始めた頃は景気も良く、走っただけ儲かったという。

「当時は真栄原社交街も営業していたから、空港から『真栄原に行ってくれ』なんていうお客さんも多かったんだ。それに真栄原は15分で区切られるちょんの間だから、人によってはゆっくり楽しめないから、やっぱソープランドに行きたいなんてお客さんもいて、ソープに連れて行けば1人当たり3000円から5000円のバックも出たし、メーター以外で1日に1万円は楽に稼げたんですよ」

コロナとともに女遊びも衰退

真栄原が営業していた当時は、月に25万円は楽に稼げたという。江口によれば、真栄原の閉鎖によりタクシーの利用者も減り、収入は減る一方だった。

そこで目をつけたのが、遊びに来る日本人ではなく、米兵だった。

「乗っけていたのは、嘉手納基地の米兵でしたね。月に2回あるペイデー(給料日)には、よくソープランドへと送り届けましたよ。行きも帰りもタクシーを使うから、彼らはいい客でした。嘉手納を選んだのは、そこそこ那覇市内から距離もありますし、初めてソープに連れて行った米兵が嘉手納の人間だったんです」

米軍基地内で米兵を拾い、那覇市内に送り届けるルートが貴重な収入源となったと語る江口。ただし、基地の中へはどのタクシーも入れるわけではなく、米軍の認可を受けないと入ることができない。

認可を受けたタクシーは「ベースタクシー」と呼ばれている。江口がベースタクシーの運転手となり、米兵を色街に送り込むことで、真栄原や吉原のちょんの間の閉鎖で激減した収入を補うことができたのだった。

米兵が、羽目を外せる色街は、辻の中のごく一部のソープランドだけだった。

そんな色街の主役だった米兵だが、時の流れの中でいつしか追いやられ、ソープ街の片隅をひっそりと歩くようになった。その姿には、江口も同情を禁じ得なかったという。

「彼らもあんまり金がないから、本当はちょんの間で安く済ませたかったと思うんです。だけど、沖縄の色街に関しては、彼らは脇役にすぎないですからね」

江口の沖縄生活も、新型コロナウイルスの大流行によって終わりを迎えた。

「ソープランドも営業している店が減って、米兵たちも基地から出られなくなっちゃったんですよ。彼らがウイルスを持ち込んだんじゃないかって疑われていたから、遊んでいる場合じゃないですよね。それで私も見切りをつけて、沖縄を離れたんです」

色街の盛衰とともに、関連する職業も打撃を受ける。しぶとく生き抜いた江口も、愛着のあった沖縄を去った。

沖縄での生活は、米兵の謎の言葉とともに、良き思い出として江口の胸に刻まれているのだった。

八木澤高明(やぎさわ・たかあき)
神奈川県横浜市出身。写真週刊誌勤務を経てフリーに。『マオキッズ毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回 小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞。著書多数。

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