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仰木彬「これで毎日酒を飲んでも、後ろ指さされないだろうな」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第62回

Dan Thornberg
(画像)Dan Thornberg/Shutterstock

野茂英雄やイチロー、長谷川滋利、田口壮といった歴代の日本人メジャーリーガーが、口をそろえて「恩師」と慕う仰木彬。選手の自主性を尊重した指導法と「仰木マジック」と称された采配は、後世に語り継がれるべきものだろう。

近鉄の監督として1989年にリーグ優勝、オリックスの監督として95年にリーグ優勝、翌年には連覇を果たして悲願の日本一にも輝いた仰木彬。

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福岡県の東筑高から54年に西鉄入団。14年間の現役生活は、オールスターやベストナインに選ばれたこともあったが、決してチームの主力というほどではなかった。しかし引退後、西鉄時代の恩師である三原脩に招かれて近鉄の守備走塁コーチに就任してから、徐々に指導者としての才覚を発揮し始める。

87年のオフ、近鉄監督に就任すると打撃特化型のチームに作り替え、前年の最下位から首位・西武を追い詰める2位にまで躍進。88年10月19日、ロッテとの最終戦ダブルヘッダーというドラマも生まれた。

セオリーに固執せず、状況に応じて臨機応変に動く仰木の采配は、恩師の「三原マジック」にならい「仰木マジック」と称された。

92年5月15日の福岡ダイエー戦。マウンドには6回からサウスポーの清川栄治が立っていた。8回一死一塁、打席に右打者のブーマーを迎えたところで、仰木がベンチを出る。球審に投手交代を伝えると、続けて「一塁に清川」と告げた。

代わってマウンドに立った山崎慎太郎がブーマーを三塁ゴロに抑えると、清川は再びマウンドに戻され、結局9回まで投げ切ってセーブを記録。75年にパ・リーグで指名打者制が採用されて以来、投手が守備位置に就いたケースは、これが初めてだった。

野茂やイチローなどの育成も

山崎はブーマーと相性がよく、清川はイマイチ。しかし、清川の調子からすれば、ブーマーさえ乗り越えれば後続は左打者が多く、最後までいける…。

こうした采配について当人は、「仰木マジックとよく言われますが、そんなの本当はないんです。あえて言えば確率です。確率が勝敗を決めるのです」と話している。

仰木は時に投手交代を独断で行ったため、これに反発する投手コーチの権藤博や山田久志との確執が、スポーツ紙を度々にぎわせたりもした。それでも「責任は自分が取るから選手は思い切りやればいい」との態度を崩さなかったことから、選手たちから仰木への信頼は厚かったという。

仰木マジックは選手育成にも生かされた。野茂英雄のトルネード投法に対して、コーチやOBがいろいろ文句を付けようとしたときも、仰木は「野茂は今のままでいい」との方針を貫いた。それがなければ野茂はフォームを矯正され、潰れていたかもしれない。

オリックス監督に就任した1年目には、二軍でくすぶっていた鈴木一朗を一軍に抜擢した。前任の土井正三監督は「振り子打法」に否定的だったが、仰木にしてみれば打撃センスが高く、好成績を残すのならどんな打ち方でも構わない。むしろ打撃コーチには、振り子打法の完成を厳命したほどであった。

そして確実に実力がついたと判断すると、スターの素質を見抜いてのことだろう、「鈴木という本名は地味だから登録名を『イチロー』に改めてはどうか」と提案した。

これに難色が示されると仰木は一計を案じ、人気先行で伸び悩んでいた佐藤和弘に対しても「パンチ」への改名を提案。先輩の佐藤がこれを快諾したことで、イチローも渋々ながら改名を受け入れたという。

イチローが世界的スーパースターに成長する中で、改名の効果がどれほどだったのか、今となっては測りようもないが、それでも仰木の功績の一つであったことには違いない。

球宴で表面化した野球観の相違

阪神・淡路大震災が発生した95年、オリックスは復興の象徴として『がんばろうKOBE』を合言葉に勝ち続け、球団名が阪急から変わって初となるリーグ優勝を成し遂げた。

日本シリーズで仰木は、野村克也率いるヤクルトに徹底したイチロー封じを仕掛けられて敗北。しかし、翌96年のオールスター戦で仰木と野村は、セ・パ両チームの監督として再び相まみえた。

ここで仰木は松井秀喜の打席で、イチローをワンポイントリリーフに送った。もちろんファンサービスの一環であり、仰木も「イチローの投手としての才能をファンに見てもらいたかった」と起用の理由を語っている。だが、これに対して野村は「松井に失礼だ」として、代打に投手の高津臣吾を送った。

オールスターをお祭りと捉えた仰木と、あくまでも勝負と考える野村。両者の野球観の相違は、評論家やファンの間で大きな議論を呼ぶことになった。

同年、パ・リーグ連覇を果たしたオリックスは、日本シリーズでも「メークドラマ」で勝ち上がってきた巨人を下し、仰木は自身初の日本一を達成する。

現役時代から酒好き、さらには遊び好きで鳴らした仰木は、「これで毎日酒を飲んでも、後ろ指さされないだろうな」と、しみじみ語ったという。
《文・脇本深八》

仰木彬
PROFILE●1935年4月29日生まれ。福岡県出身。西鉄黄金時代の正二塁手として活躍。引退後は近鉄、オリックスで監督を務め、リーグ優勝3回、日本一1回。自在の采配は「マジック」と称された。2005年12月15日に呼吸不全のため死去。

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