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「人生の曲がり角」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part9~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和45(1970)年1月、佐藤栄作首相は田中角栄の自民党内での勢いにブレーキをかけるため、田中の幹事長交代をうかがった。しかし、田中を支える時の川島正次郎副総裁らの猛反対に遭い、渋々ながら田中の4期目の幹事長留任を認めたのであった。

一方、留任を果たし、すでに天下取りへの自信を深めていた田中は、その際に太平洋側と日本海側の格差是正をにらんだ「日本列島改造計画」を掲げるため、いよいよ議員立法の仕上げと法律づくりに拍車をかけた。過疎地域対策緊急措置法、全国新幹線鉄道整備法、本州四国連絡橋公団法、自動車重量税法、農村地域工業導入促進法、豪雪地帯特別措置法改正といった具合である。

そうした中で、結局、昭和46年6月まで5期、延べ4年1カ月の幹事長を務めた田中について、自民党本部幹事長室室長だった奥島貞雄は自著『自民党幹事長室の30年』(中公文庫)で、次のような〝秘話〟を明らかにしている。その要旨は、こういうものである。

“真髄”は男気と合理性尊重

「田中幹事長の政治に対するカネの使い方は、巧みだった。自派の若い代議士が、『外遊したいが少々資金が足りないので、20万円ほどお願いできないか』と頼みに来ると、『よっしゃ、これを持ってけ』と紙袋を渡す。その後、その代議士から幹事長秘書に電話が入って『開けてみると100万円あった。間違いではないか』となった。秘書が田中に確認したうえで『間違いではない』と伝えると、代議士本人は大感激の体だったという。

また、中選挙区制時代は同じ選挙区で、自派の候補と他派の候補が競ったが、田中は自派の候補が当選確実で、他派候補が当落線上で戦っていると、自派候補には内密で資金を届けてやっていた。こんな他派の候補は、当選すると自派のボスには極秘で、田中のところにお礼に参上してきていた。こうした男気、気っぷのよさが、のちに田中派として膨張を果たした大きな理由ともなった」

「昭和40年代初期の自民党職員の服務規定は、就業規則、給与体系、勤務時間などの明文規定がなく、まさに〝大福帳〟的な組織だった。しかし、田中は幹事長になるや、『党に働く人間の身分こそ、ちゃんと近代組織化する必要がある』と党人事局長に命じ、自民党事務局規定を作成させた。

ために、佐藤栄作内閣までは、首相の外遊となれば国会議員はもとより党職員まで、大挙して羽田空港での〝お見送り〟〝お出迎え〟に参上していた。しかし、のちに田中内閣になると、田中自らの提案で見送りなどは大幅に簡素化されている。賑やかなお祭り好きの田中だったが、『無駄なこと、不必要なこと』は、極力、排除していた。すべてが物事の合理性を尊重する田中だった」

無役になって天下取りに挑む決意

昭和46年6月、田中は幹事長として参院選を仕切ったが敗北した。佐藤政権が長期にわたり、国民に飽きられたことが敗因だったが、投開票日から2日後の朝、田中は佐藤首相に会って辞意を表明した。田中にとっては、無役になって天下取りに挑む決意でもあったようだった。佐藤はそれを受けて「閣僚、党三役の一新」を決意した。

「歴代最強幹事長」と言われ、「最も幹事長らしい幹事長」と評された田中が辞意を決断した心境について、朝日新聞(昭和46年6月30日付)は次のように伝えた。

「長い幹事長務めを通じて、党内外に田中支持者は急増してきた。そして、(幹事長を辞める辞めぬの)判断は、田中氏自身にとっても難しかった。しかし、判断の決め手は外からやってきた。参院選の不成績――。『改造問題を前に、このまま居すわれば、かえって党内の批判を受けかねないし、緩んだ党内のタガを締め直すことも不可能だ』と辞意表明に踏み切ったということのようだ。

29日朝、『後任には保利(茂)君を推薦します』と、田中幹事長は首相に進言した。『まぁ、人事は俺が決めるから』と首相。『入閣交渉が来たらどうする』と記者団。これには、田中幹事長は、直接、答えなかった。佐藤政権を支えることと、『ポスト佐藤』を狙うこと。この一見、相反する命題にいま自分で解答を見いだすことは、おそらく困難なのだろう。酒を呑めば、きっと『末ついに、海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり』と好きな言葉を口ずさむだろう」

最後までかぶった政権の「泥」

田中はこのときの第3次佐藤内閣の改造で、佐藤の懇請を受けて改めて通産大臣に就任した。

田中の天下取りを夢見る子分の二階堂進らが、口をそろえた。

「オヤジさんばかり、泥をかぶることはないじゃないですか」

折から通産大臣には、3年間にわたって難航に難航を重ねていた「日米繊維交渉」が待っていたのだった。すでに、日米間で3年後の「沖縄施政権返還」が合意されているだけに、佐藤としては何としても、早期に確実な収拾を図らねばならぬ最重要課題だったのだ。

田中は、言った。

「佐藤政権の最後の責任は、俺が全部取る。あえて、火中の栗を拾う」

大平正芳、宮澤喜一の2人の通産大臣が1ミリも前に進められなかった交渉を、田中は辣腕を発揮してまとめ上げたのだった。

その通産大臣就任の1週間前、田中は密かに親しい公明党の竹入義勝委員長を中国に派遣していた。竹入は周恩来首相と会談し、日中国交回復促進で合意するとともに、正常化へ向けての問題点、ポイントを探ってきた。田中には、すでに天下取りの「絵」が見えていたのだ。

田中にとって、長かった幹事長ポストは政治家としての大きな曲がり角でもあった。人生には、誰にも大きな曲がり角の一つや二つはある。田中は持ち前の頭脳、知恵をフル回転し、全力投球、誠心誠意で、この曲がり角を乗り切ってみせたのである。

(本文中敬称略/次回より新章「宿命の2人」が始まります)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。