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渡辺元智「時代とともに指導方法は変わらないといけない」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第61回

mTaira
(画像)mTaira/Shutterstock

半世紀にわたって横浜高校野球部で指揮を執り、春夏合わせて甲子園出場27回、全国制覇5回の強豪校に育て上げた渡辺元智監督。「プロに入ってからも、渡辺監督のおかげでいろいろと困ることがなかった」と語る同校のOBは数多い。

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「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔をはじめ50人以上の教え子たちをプロの世界に送り込み、高校球界きっての名将と称された横浜高校の渡辺元智監督。現役選手では涌井秀章(中日)や筒香嘉智(無所属)、今春のWBCで全試合スタメンを務めた近藤健介(ソフトバンク)らが渡辺監督の教え子に当たる。

1965年から横浜高校硬式野球部のコーチを務め、68年に24歳の若さで監督に就任。以後、部長として裏方に回った時期もあったが、2015年に勇退するまでおよそ半世紀にわたり同校で指揮を執った。甲子園に春夏合わせて27回出場し、通算51勝を挙げて計5回の優勝を果たしている。

23年春の選抜大会が終了した時点で、甲子園常連校を率いる監督の歴代最多勝は、智弁学園(奈良)と智弁和歌山の両校で68勝を挙げた高嶋仁監督。最多優勝は大阪桐蔭の西谷浩一監督の8回。

渡辺監督は勝利数で5位、優勝回数で3位のランキングだが、高校野球においては一時期に優秀な選手が集中し、それによって好成績を残すことが珍しくない。渡辺監督の場合は70年代から00年代まで、各時期で甲子園優勝を果たしている点が特筆に値する。

単に選手に恵まれただけなら、何世代もの長期にわたって高いレベルを維持することは困難で、やはりそこには指導者としての能力の高さがあったのだろう。

学校全体が荒れていた…

もともと渡辺監督はプロ志望だったが、横浜高校卒業後に進学した神奈川大学で右肩を壊し、選手生命を絶たれてしまう。それで自暴自棄となって大学を中退。いったん就職はしたものの、酒に溺れて時には暴れるような日々を過ごしていたのだという。

そんなときに母校の野球部監督から誘いを受けた。高校時代、熱心に野球に取り組んでいた姿勢を評価されてのことだった。

この頃の横浜高校は63年夏の甲子園に初出場し、ベスト4まで進出していたが、決して名門というわけではなく学校全体が荒れていた。渡辺監督は「毎日のように怒鳴り散らし、子供たちとはずいぶんとぶつかりました」と振り返る。

当時の神奈川県は法政二高や東海大相模高の全盛期であり、横浜高校は何度も甲子園出場を阻まれていた。それでもめげずに「日本一厳しい」と自認する猛練習で選手を鍛え上げたが、あまり厳しく接すれば反発を招くことにもなる。実際、20代前半の頃には生徒から裏山に呼び出され、凄まれたこともあったという。

しかし、いくら練習しても試合に勝たないことには監督をクビになる。試行錯誤の末、たどり着いた答えは「人間力と技術力の両方を高める」ことだった。そして、自宅を合宿所代わりにして部員を住まわせるなど、親身な指導を続けた結果、監督就任から5年目となる73年春に、同校初となる選抜大会出場と甲子園初優勝を同時に達成した。

「何が何でも全国制覇と自身を追い込んで指導していたので、頂点に立った瞬間の達成感と充実感は忘れられませんね」

渡辺監督の育成方針は、選手たちを信頼し、さまざまな手段を使ってコミュニケーションを取り、信頼関係を築くことにある。晩年になっても「時代とともに指導方法は変わらないといけない」と、携帯電話やメールを駆使して積極的に球児たちと関わっていた。

人間的な成長が技術向上の基本

技術面の指導に関しては、高校時代の同級生で盟友とも言える小倉清一郎部長にその多くを任せた。小倉部長は練習嫌いだった松坂を付きっきりで指導し、甲子園春夏連覇の大エースに育て上げたことでも知られる。その一方で渡辺監督は、選手たちの人間力を向上させることに努めた。

「栄光より挫折。勝利より敗北。成功より失敗。白いボールを追いかける中に人生がある。教え子たちには人生の勝利者になってもらいたい」

選手たちの人間形成に役立ちたいとの思いから、政治家や企業家など異業種の人々と交流し、自身の知見を広め、それを伝えることも心掛けていたという。

「指導者のアイデアなくして勝利には結びつかない」「人間的な成長があって、初めて技術を生かすことができる」「甲子園には、魔物なんて棲んでいない。もしも、棲んでいるとしたら、おまえたちの心の中にいる」など、野球の技術とは直接関係のないような言葉の数々は、そうした経験を踏まえたものだった。

座右の銘は「富士山に登る第一歩。三笠山に登る第一歩。同じ一歩でも覚悟が違う。目標がその日その日を支配する」で、これは点字の普及やハンセン病患者の救済に尽力した社会教育家、後藤静香の言葉である。

甲子園で勝つことも大事だが、それ以上に甲子園を目指す覚悟を持って、日々一歩ずつ進むことが大事というわけだ。

15年に渡辺監督が勇退を表明すると、名将に育てられてプロ入りした横浜高校のOBは「自分をプロに導いてくれた人で、一生の恩師です」(涌井)、「技術面から精神面まで教えてもらった」(筒香)などと口々に感謝の言葉を贈っている。

《文・脇本深八》

渡辺元智
PROFILE●1944年11月3日生まれ。神奈川県出身。68年に横浜高校硬式野球部の監督に就任し、73年春に甲子園初出場で初優勝。愛甲猛を擁した80年夏、松坂大輔を擁した98年春と夏、2006年春と頂点を5度極めた。東北楽天の渡邊佳明は孫。

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