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グラビアアイドル/橘和奈インタビュー~CAからグラドルに華麗なる転身

橘和奈
橘和奈 (C)週刊実話Web

この春、グラビアデビューしたばかりの橘和奈。新人の彼女になぜ注目するかというと、経歴がユニークだからだ。デビュー直前までは大手航空会社でCA(客室乗務員)をしており、米国と中国に留学経験のあるトリリンガル。小学6年のときには東日本大震災を経験して仮設住宅住まいだったという。この12年間で少女はどのように成長しグラドルの道を選んだのか? じっくりと聞いた。


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――CAからグラドルへの転身自体が珍しい。どういう経緯なんでしょう?

橘 もともとアイドルを応援するのが大好きで、結成当初からAKB48を追いかけていました。特にまゆゆ(渡辺麻友)推しだったんです。グラビアを見たりするのも好きでしたが、まさか自分がやることになるとは、考えたこともなかったです。

――客室乗務員をしているときに何かがあった?

橘 実は、気圧の変化などが原因で、1年くらいで耳を痛めてしまったんです。退職せざるを得ない状況になり、次にどんな仕事をしよう…と考えているときに、知人が事務所の方を紹介してくださいました。本当のことを言うと、出身地の(福島県)南相馬市のことが大好きなので、田舎に帰って農業でもしようかと思っていたんです。私の祖父母が農業をやっていて、大量の野菜を作るんですけど全然売ろうとしないんですね。毎年余らせてもったいないなぁと思っていたので、それを売りに行こうかなと考えていました。

――そこを止めたのが事務所の方だった?

橘 はい。社長さんが「実家にはいつでも帰れる。でも、芸能活動、特にグラビアは若いうちにしかできない。始めるなら今では?」と言われて。ああそうか、もう1回、チャレンジしてみるのも悪くないかな、やらずに後悔したくないなと思い直しました。

――それはやはり、東日本大震災の経験が生かされている?

橘 そうだと思います。「したいことがあるなら、今すぐにしよう。やらずに後悔したくない」という考え方になりましたね。

被災地に憧れのAKB48が…

橘が被災したのは小学6年生のとき。家は流され、家族6人が仮設住宅で3年間暮らすことになる。

橘 最初の数カ月間、食料は支援物資しかなかったので、常に空腹。放射能の心配もあり外出は極力しないようにと言われていて、外に出るのは3日に1回くらいの生活だったんです。仮設住宅は狭い空間で仕切りもなく、雑魚寝状態でした。学校も翌年まで休みだったので、家の中ですることといったら、寝転んで本を読むか妹と支援物資でいただいたウノやジェンガをやるくらい。そうした生活を送っていたら、成長期ということもあり、気づいたら1年で身長が12センチも伸びていました。

――仮設住宅にはテレビはあったんですか?

橘 しばらくして支給されたのですが、被災者への配慮なのかドラマの再放送ばかりでバラエティーはあまり放送されませんでした。

――むしろ、やってほしかったのでは?

橘 そうなんです。息抜きがないと、どんどん暗い気持ちになっちゃいますよね。

――そんな中でも何か楽しみはあったのでしょうか?

橘 ありました! 2週間に1回、被災地訪問プロジェクトとして、東京からバスでAKB48の方たちが来てくれたんです。8人くらいのチームで毎回メンバーは変わるのですが、何曲か歌ってくれた後に全員と握手ができるんです。それを見に行くのが生きがいでした。

――推しのまゆゆも来てくれたわけですね?

橘 はい! 大感激して握手もしてもらいました!!

――CAになりたいというのは、その頃の夢だった?

橘 いえ、幼稚園の頃から漠然と考えていました。

――なのに、中学に上がる直前に仮設暮らしになってしまった。先が見えない不安もあるし、英語を学ぶ機会も遅れたわけですね。

橘 中学には1年の3月から通えるようになりましたが、英語に関しては基礎的なことから習いました。ただ、もっと英語を学びたい気持ちがあったので、高1になって留学を決心するんです。仮設住宅での生活が大変だったのもありますが、外国に行った方が英語が身につくんじゃないかと思い、母親が見つけてきてくれた被災者を支援する団体の公募に応募しました。

留学先でのさまざまな初体験!?

橘和奈
橘和奈 (C)週刊実話Web

――日本人のこんな可愛い子が来たらモテたのでは?

橘 いえいえ、〝陰キャ〟なので全然でした。ミネソタ州の片田舎だったのですが、日本人はほとんどいなくて、高校では私1人だけ。英語が全く話せない状態で行ったので、最初は壁を作ってたんですね。クラブ活動のチアリーディングでも、せっかく家に誘われたりしても「私は勉強がしたいから」ってさっさと家に帰っちゃうような子でした。それでも半年くらいでなんとか話せるようになり、そこからは溶け込めたのかなと思います。

――チアはいつから?

橘 祖母が日本舞踊を教えていた関係で、幼稚園の頃から日本舞踊は習っていました。同時期にチアも始めたんです。学校のではなく福島県のチアリーダーとしてタレントさんや芸人さんのイベントで前座として踊ったりしていました。

――チアといえば、バク転したり空中に飛ばされて脚を180度開脚したり、アクロバティックな技も多い。そういうのもやっていたんですか?

橘 当時はできました。でも、私は身長が大きめだったので、残念ながら飛ばされる役ではなく、飛ばす役でした。それが、アメリカに行ったら私は華奢な部類に入るので、飛ばされる役になれたんです。あれはうれしかったですね♪

――高校を出て日本の大学に入り、半年後には中国に留学。その理由は?

橘 ホームステイ先で中国の文化に興味を持ったのもありますが、語学を学びたかったからです。ただ、奨学金で行ったので、生活は大変でした。中華料理店でアルバイトもしました。特に餃子や小籠包はよく作っていたのを覚えています。その経験が、コロナ禍でのお仕事にも生きました。

――というと?

橘 CAになったときはコロナ禍中で、フライト便数が週に1、2回と少なかったため、副業がOKになったんです。そこで、料理教室の試験を受けて先生をしていました。

――いろいろとグラビアとは結びつかないエピソードばかりだ(笑)。となると、初めての水着撮影は緊張しまくりだったのでは?

橘 そうですね。人前で水着になるのは初めてでしたし、表情やポーズはぎこちなかったかもしれません。改めて先輩のグラドルさんたちにリスペクトでした。

――グラドルとしての夢はありますか?

橘 雪の中で撮影してみたいです。真っ白なビキニを着て撮られたら綺麗なんじゃないかなぁって。

――雪の中の白ウサギになっちゃいますよ。

橘 いいですねぇ。グラビア記事のタイトルもそれでいきましょう(笑)。

――最後に、好みの男性を教えてください。

橘 明るくて活発的な方に惹かれます。人見知りだけど、いいなと思ったら自分から告白しちゃうタイプかもしれません。言わずに後悔したくないと思っちゃうので(笑)。

◆たちばなあいな
1999年2月22日生まれ。T170、B88・W66・H92センチ。趣味は料理、キックボクシング。

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