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輪島大士「俺、いい星の下に生まれてきたんだな」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第49回

J. Henning Buchholz
(画像)J. Henning Buchholz/Shutterstock

強さと巧さを兼ね備え、トレードマークとも言える金色のまわしや得意の左下手投げから「黄金の左」の異名を取った第54代横綱の輪島大士。土俵外ではさまざまなトラブルを起こして廃業となったが、その人柄を慕う声は今も少なくない。

大相撲は神事なのか、それとも格闘競技なのか。人によって意見の分かれるところだが、現役時代の宮城野親方(元横綱白鵬)がたびたび「横綱の品格」を問われたことからすると、神事としての伝統を重んじる人が多数派なのだろう。

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とはいえ、モンゴルをはじめとする外国人力士たちの多くは「神事の継承者」ではなく「プロのアスリート」としてスカウトされてきたのだから、そこに伝統を押しつけることは、いささか理不尽にも感じる。

相撲界で最初に「プロ」として注目を浴びたのは、第54代横綱の輪島大士ではなかったか。

日本大学相撲部では、学生横綱など数々のアマチュアタイトルを獲得し、卒業前の1970年に花籠部屋へ入門。スカウトの際には高額の契約金が提示され、引退後に部屋を継がせることまで約束されていたという。さらに、新弟子としての雑務を免除される特別待遇を受け、相撲部屋で寝泊まりすることもなく、日大の宿舎から「通い」で初土俵を踏んでいる。

そんなことが許されたのは実力の裏付けがあったからこそで、輪島は「幕下付出」でのデビューから連勝を重ねると、2場所連続で全勝での幕下優勝を決めて十両昇進を果たしている。

横綱昇進も超スピード出世

下積み経験がないまま十両となったために、羽織のたたみ方も知らなかったという輪島だが、相撲界の伝統などどこ吹く風。「すり足がおざなりになって腰が軽くなる」との理由でランニングが避けられてきた中で、これを積極的に取り入れ、稽古のことも「練習」と呼んだ。

まげを結うため髪を伸ばしている最中にはパーマをかけ、先輩たちにはばかることなくリンカーン・コンチネンタルで国技館に乗り付け、地方場所では1人で高級ホテルに宿泊した。

勝ったときにもらえる懸賞金をすぐさま使ってしまうため、翌年に税金を払えなくなって、相撲協会がその分の800万円を立て替えたこともあった。現在、優勝賞金や懸賞金は源泉徴収されているが、これも輪島の一件があったからだといわれている。

しかし、決して輪島に悪気があったわけではない。よく言えば天真爛漫で、思ったままに振る舞っていただけだった。

逆に周囲から特別扱いを受けても尊大な態度を取ることはなく、大関昇進時には「自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話している。横綱昇進が決まった際も「俺、いい星の下に生まれたんだな」と謙虚に振り返っていた。

そのため、いくら常識外れなことがあっても、輪島の人柄そのものを批判する声はほとんどなかった。

初代貴ノ花とは無二の親友で、「貴ノ花と藤田紀子さんのキューピッド役は俺なんだ(70年に結婚、2001年に離婚)。最初のデートも同席し、メシも俺のおごりだよ」などと話している。もっとも紀子さんが後に語った話では、輪島は「俺が払う」と言いながら貴ノ花の財布を持っていったそうだが…。

超スピード出世で横綱に昇進した天才型の輪島に対し、5つ年下の北の湖は13歳で初土俵を踏んだ苦労人。対照的な2人は熱戦を繰り広げ、昭和の相撲界に「輪湖時代」を築いた。本割での対戦成績は輪島の23勝21敗(二度の優勝決定戦を加えると24勝22敗)。両者が横綱として相まみえた76年から77年にかけての12場所は、共に優勝回数5回ずつを数えた。

14度の幕内優勝「輪湖時代」築く

水入りになった取組も3番あり、これは互いに力量を認め合い、実力伯仲だったからこそ。輪島は北の湖を「運動神経が抜群だった。一度掛けた技は二度と通用しなかった」と評し、北の湖も「慌てて出ると下手投げを食う。こっちの体重を相手に掛けて、疲れるのを待つようにした」と話している。

「強すぎて憎たらしい」とまでいわれた北の湖が、そうした対策を練らねばならないほどに、輪島の強さも格別だった。まさしく「好敵手」であり、輪島が相撲界を離れた後も、北の湖は個人的に番付表を送り続けていたという。

史上7位となる14度の幕内優勝を果たし、引退後には先代から花籠部屋を継承した輪島だが、年寄名跡を担保にした金銭トラブルが発覚して廃業。この件を苦にした先代のおかみさんが自殺したこともあって、世間からの非難にさらされた。

身から出たさびには違いないが、それでも廃業後にプロレスラー、タレント、アメフトのクラブチームの総監督など、さまざまな活動の場を得られたのは、それだけ輪島を応援しようという人たちがいたからに違いない。

また、輪島にしてもプロレスなど関わってきた業界を批判することは一切なく、テレビでとんねるずに「天然ボケ」扱いされたことについても「あの2人のおかげで今の俺があるんだから。この気持ちを忘れたら人生おしまい」などと感謝の意を述べている。

09年1月には解説者として、23年ぶりにNHK大相撲中継へ出演。不祥事から廃業した関係者の復帰はかなり珍しいことで、これも輪島の人柄があってのことだろう。

18年に咽頭がんと肺がんの影響による衰弱で輪島が亡くなると、辛口解説で知られる元横綱の北の富士勝昭さんは、「人懐っこくて、私は好きだった」と悼んでいる。

《文・脇本深八》

輪島大士
PROFILE●1948年1月11日生まれ〜2018年10月8日没。石川県出身。日大相撲部で学生横綱に輝くなど活躍し、大相撲の花籠部屋に入門。初土俵からわずか3年半で横綱に昇進。幕内戦績620勝213敗85休。引退後はプロレスラーに転身。

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